いわゆる大通信時代の船頭に敬礼

 

 昨日、某携帯電話大手事業者で通信障害が起きたらしく、今朝、それに関する報道がなされていた。これが10年前ならどうだったのだろうか、思い出そうとしても思い出せないのは、私の過去に対しての通信が途切れがちな証拠である。いわゆる、記憶力低下。アップデートしたいが、その方法は見つからない。

 スマートフォンを使う以上、明日は我が身だろう。しかし書店に行けば、各都道府県の地図も販売されている。通信が途絶えると何も出来ない訳ではない。アプリで使っている機能だって元々、商店街や量販店などで手に入る商品でまかなえていたはずである。地図、電卓、メモ帳、絵の具、CDプレーヤー、ラジオ、懐中電灯...。通信が途切れても、生きている世界は途切れることがない。

 

 そんな風に言いながら、この記事はノートPCで書いているし、耳をふさいでいるイヤフォンから流れてくる音楽は、純然たるspotify提供である。見事に裏切っているが、恥じる必要はないと思っている。フェーズごとに必要なツールを使う、ただそれが全てではないことを意識しながら。私の勝手なモットーの一つである。

 何事も一面で構成されているとは思わない。両面、あるいは多面であることに面白みを感じながら、時には操られてみたり、また時には背を向けてみたり、「面」と向き合うのをふざけているだけである。こういう姿勢で構えていると、真っ直ぐな人達からは反感を買うこともあるが、それもそのフェーズで起こり得る事象であって、何も恐れることはないだろう。

 

 LED ZEPPELIN「STAIRWAY TO HEAVEN」が流れてきた。20代の頃、『Ⅳ』を持っていてよく聴いていたのを思い出す。少しだけ、私の通信が復旧してきたようだ。

 過去を振り返ることは、多少の時間であれば刺激的だが、ずっとそこに浸っているとふやけてしまいかねない。懐かしい音楽を聴いて思い出す風景、気持ちがあることを誇りに思い、行く先を定めて動くべきだろう。

 

 さて、通信障害。

 いづれ、通信障害が自然災害のように語られるようになるのかもしれない。それほどまでに通信は生活に欠かせない存在であり、便利さや効率性、確実な処理をもたらしてくれる、かけがえのない相棒ともなった。

 相棒がいないと何もできない。それは依存でしかない。

 相棒がいれば生活が華やかになる。相棒がいたから、ピンチも切り抜けられた。

 

 大変な時代だから、相棒とともに共闘して日々の苦難を乗り越えたい。

 たまには相棒を置いて、書店で手に入れた地図を片手に、見知らぬ街を歩くのも面白い。液晶画面に映らない、ICチップの向こう側の景色。補正された色彩は美しいかもしれない。しかし、粗のない世界などあるのだろうか。

 補正された画像に慣れた目は、粗さがしで血眼になっていないだろうか。

 完全な通信などありえない。創造したヒト自体、完全ではない。おそらく。

 

 今朝の報道で、待ち合わせていた人が連絡も取れない中、無事に再開した喜びを分かち合っている場面が印象的だった。

 人と人が会うって、実は凄いことだと思う。今や、時間も場所もすぐに指定できるし、動きながらお互いの居場所も確認できる。でも、それは完全ではないが故に、完全に近づけさせようとしたヒトの努力の証なのだ。それが通信というカタチに現れている。

 

 何を書きたかったか分からなくなったが、おそらくこれも私の通信障害で、これからも通信を、それに関わる多くの人達に感謝と声援を、心のうちから送り続けたいと思う。