飽和した日常の先に見つけたスルメイカ

 

 小さなメモ帳がなくなり、このブログ上に載せてきた、弛緩したイラストが描けなくなっているけれど、忘れなければ仕事帰りに買ってこよう。と、今までに何回も思ってきたはずなのに、いつも忘れてしまう。

 でも、忘れることは善いことだと思う。勿論、忘れていいものに限っては、という意味で。

 何かの何かで読んだけれど、忘れることは生命活動にとって、無益なもの、必要ないものを淘汰していく過程であるとか、今となっては読んだかどうかも定かではない。私自身の記憶が捏造されているとすれば、捏造した記憶も忘れてしまいたい。

 何もかも記憶して生きるなんて、その方が残酷だろう。忘れたい風景や言葉、態度さえも忘れられないなんて、それはどんな罰なのかとも思う。ただ、もし隣にすべてを記憶している人がいるなら、それはそれで善いのかな。忘れて苦しむことも、忘れられずに苦しむことも、この世界に散りばめられた破片のようなもの。

 せめて皮膚を切らない程度に、受け容れたっていいように感じる。

 

 秋の空気は嫌いだ。でも、湿気も花粉もなく程好い,肌触りが好きでもある。

 忘れた景色が、ふっと目の前を覆う。その景色が好い景色か、悪い景色か分からないけれど、思い出すことで辛うじて生きているようにも感じてならない。好い景色なら箸休め、悪い景色なら箸休め、って結局は箸休め。それくらいが丁度いい。

 

 凄く好きで、朝も晩もそれに関わっていることが幸せなことがあるとして、何かの理由でそれを嫌いになっても、それはそのものを嫌ったわけではなく、因果で生じた歪みなのである。なにも変わってはいない、少しくらい距離を置いたところできっと、「何やかんや、ずっと想っているじゃん」ってなるだろうし。

 

 忘れなければどうにでもなる。忘れてもどうにかなる。

 なぜなら地球は丸いから。