数学嫌いの数学好きな文系人間

 

 私は、根っからの文系一派である。

 思い返すと、小学生の頃に図書室でコナンドイル著『踊る人形』を借りて読んだ時から、私の文系生活が始まったと言えなくなくなくもない。

 何もしなければ、何もない。それが人生であると思うし、ではそれが全て否定的なものかと言うと、決してそう言うことではないと思う。何かしなければならないとすれば、何かしなければならないと思うからで、必ず何かがあるわけでもない。

 肯定しているのか、否定しているのか最早、分からなくなっている。

 

 そういえば最近、数学の本を読む機会が増えている。いきなり?

 数学とかいうとインテリ源ちゃんに思えてならないのは、文系人間が抱える永遠の謎、いわゆる、理系コンプレックスだろうか。コンプレックスって複雑系とか訳したはずだけど、理系複雑系って言葉が、複雑怪奇である。

 「理系」というフォルダの中の「複雑系」というフォルダを指しているのか。もう、この文章自体が複雑すぎて把握できない。

 

 数学の参考書を読むと、数字とアルファベットと記号が並んでいて、だからパスワードって数字やアルファベット、記号の羅列で構成されているのだと納得させられる。

 納得はするが、理解はしていない。理解してはいないが、納得してしまえる器量はある。

 

 曖昧模糊とした東洋医学の世界を、数式や記号の配列で解明、あるいは共有することができれば、少しは善くなるのかも知れない。鍼灸の現場から離れたことを、今となっては後悔していないが、そこから離れたときに東洋医学の声が聞こえないこと、それが一番寂しい。

 限られた空間でしか共有されない、まるで門外漢はお断りと言わんばかりの狭い世界の物語みたいに。でも、東洋医学と区切ってしまうからそう思えるだけで、これは太古のヒトが生み出した文字であり、記号の配列なのである。

 

 分かれていると見えるなら分かれていようが、分かれていなければならないことはない。

 肯定も否定もないというのは、果たして肯定だろうか?それとも否定だろうか?

 

 正直、どっちだっていいじゃないかというのが、私の信念です。もう、元も子もない。

 

 古くからの中医学、伝統的な鍼灸医学がもっと強く広く根付くためには、もしかしたら治療と経営が陰と陽みたいに、付かず離れずであることがいいのかも知れない。

 鍼灸師は治療に専念し、経営は経営者に任せる。しかしながら、底流には必ず同じ想い、信念が流れていなければならない。あるいは、鍼灸院の財務や経営の部分は鍼灸師が携わるべきではない。

 院の存続が個人の生活の基盤となる以上、無理もできないし、否が応でも利益を見なければならなくなる。「経営とはそういうもの」かも知れない、それならばなぜ、最初から経営者を目指さずに鍼灸師になったのだろう。

 

 仮に鍼灸医学がボランティア、無償となっても構わないと思っている。むしろ、そうあってほしいという願いもある。そのためには、それで鍼灸師が生活するに足りるバックアップがなければならない。でなければ、単なる自殺行為にしかならないから。

 それで保険は高額な、高度な医療に向けたほうがいい。高度な医療がもっと普及しなければ、経済的損失や世帯当たりの負担は膨れ上がるだけではないか。

 

 あ、すごい熱弁。そして長文、それからおやすみなさい。