心頭滅却せば火もまた涼し

 

 専門学校時代、残りの一生を鍼灸師として過ごしてゆくものだと強く思っていた。そうしなければ死んでしまう方がマシ、とさえ公言して憚らなかったように思い出す。

 でも、鍼灸師から離れても生きている。そして今なお、生きている。恥ずかしさはない、きっと廉恥なんてものはどこかにおき忘れてきたのだろう。

 恥知らずと何度言われたことか、思い出せない。忘却の意味は、生きることに抱える必要のない事象を切り離すことで、生命を永らえさせることにあると思う。

 

 あの情熱は何処へ去ってしまったのだろう。まるで酷い熱病に罹ったかのような、激しい発作はもうない。私は、過去を騙しているのだろうか。未来さえも欺き続けるのだろうか。

 しかしながら、胸の内は晴れやかである。語弊がある言い方ではあるけれど、嘘偽りなく、スーッと風が抜けるように、晴れ晴れとした気持ちなのである。

 とは言え、思い切り「いえーっい!」と言うものではなくて。思ってもみなかったことが突然、肚に落ちた時のような快感に近い。

 

 高校生の頃から願ってきた人生五十年が、誰が提言したものか、人生百年時代などと言われるようになってしまい、憂鬱は募るばかり。それなのに、胸の内は妙に抜け切っているから不思議だ。

 この肉体はとどのつまり、生臭い皮袋。それは生身に対する侮蔑ではない。

 

 どんなに気取ってみても、どれほど地位や富を築き上げたとしても、実体なんてものは唯一つ。

 笑おうが泣こうが、怒りに震えようが、此処其処に在る生命は一つだけしかなくて、それは上下左右に伸びるものではないから、その実体を離さず忘れず、ただ此処其処に在るだけでいい。

 

 白色光やLEDでは、降り注ぐ太陽光の代わりになれない。

 冷蔵庫やエアコンでは、深緑の隙間を流れ下る冷水のように、肉体に染みる心地好さは生み出せない。

 精巧な電子回路や半導体は、人間の代わりに緻密な作業や高度な処理はできるかもしれないが、其処で息づくヒトの大切さ、優しさに代わることはできない。

 

 死を想え。その時、其処には生命があることを忘れずに。

 死は死を想うことなどできない。生きているからこそ、そこに想いが生まれると信じる。

 

 さて、何を書こうとしたのか忘れてしまった。