往けども往けどもかたつむり迷宮

 

 激務に追われる日々、不思議なほどに爽快。もしかしたら、私の血脈にはドMの精神がフル稼働しているのかも知れない。ドMのMは、mindのMとは言わないけれど。

 「忙」という文字を、「心」を「亡くす」ネガティヴな言霊と思い込んできたけれど、時にはそういう状況の方がリラックスできることもある。というと、まるでワーカホリックの戯言に聞こえようが、決してワーカホリックな人間ではない。

 ただ、根が真面目なだけである。

 

 数年ぶりにオフィスワーカーとなり、座位での作業が増えたことで右臀部が痛むようになった。

 願わくば、持病の痔疾が再開されないことを。私の願いは切実であり、決して切れないことなのである。よくキレる時代とは逆行し、切れない事のみを願う、平和主義とはこんなにも身近だったろうか。

 もう、あの頃には戻れない。座ることに幸せだけを感じていた、素晴らしき時代には。

 

 心の底から願うことがあって、そこに注ぐ愛情が満ちても満ちても決して溢れないほどならば、方法に限界など設けるべきではないと思っている。一見、関係しないような手法が、想像しなかった未来を見せてくれることもある。

 限界というものは所詮、人の心に生まれた粘着質の理不尽。

 

 前例がないことを基準にすれば、必ず、新しい例は生まれなくなる。

 約束されていない未来に、過去を例に取って約束させようなんて横暴である。過去にはそれで上手くいったかも知れないが、それはあらゆる確率を排除した、純粋な必然だったのだろうか。

 

 過去を否定することは、歩んできた足跡を消されるように、不安と怒りの衝動に駆られる一種の暴力ではあるけれど、ヒトはそこには存在していない。足跡はもう、遥か数歩先に着いている。

 ヒトがいるのはそこであり、而して、そこではないのだから。

 

 私は私自身、その過ぎ去った歳月を否定するが、それは自身を否定する物ではないと信じている。

 今様に表現するならば、私は私のキャッシュを削除しているにすぎない。過去の歳月というアプリを、人生のシステムからアンインストールしたわけではない。

 

 さて、そろそろ私の臀部が悲鳴をあげ、限界だと訴えている。

 前言を撤回するわけではないが、「ヒトはケツに優しくあれ」という古いことわざに敬意を評して、今日はこれくらいに。