男三十五にして思惑

 

 「不惑」ではない。「誘惑」でもない。ただの「思惑」。

 思い、それから惑う。あるいは。思いながら惑う。正直、時系列はそんなに大切ではない、この場合には。

 

 大切なのは、私がただ、思い惑っていることなのだから。

 とはいえ、それは重篤な苦悩などではなく、単純に思い惑っているだけで、この言葉を重ねれば重ねるほど、正気を疑われそうだ。否、もう既に疑われているだろうし、意外に正気があること自体を疑われていてもおかしくない。妙に納得。

 

 昨日までの雨も上がり、すっかり晴れ上がっている。

 ここのところ、気候も思い惑っているのだろうか。だとすれば、心強い同志を得たことになり、私が思い惑う必要も消えて無くなると思う。同志が来た途端、同志ではなくなるなんてとても酷い話である。

 

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 毎度のことながら、こうやって文字を入力する際、予めテーマを決めるということもなく、脳内の神経活動や体内の脈拍に沿って適当に、否。適切に記事を書いているのだが、読み手のことを意識していないのは、一度でも読んだことがあれば容易に、気づかされることだと思う。

 すごく貴重な情報を発信している訳ではなく、かと言って、貴重な情報を得るために受信している訳でもない。では何故、大量の文字を消費し、ある程度の時間と労力を割いてまで入力しているのかと問われると、誰か教えてください、何故でしょうか?

 

 それにしても、窮屈な時代である。他の時代を生きたことがないので、実は他の時代と変わらないのかもしれないが、今は膨大な情報量や処理すべき案件が急増傾向で、、それらを管理するにはあちらこちらに枠組みや箱、檻などを用意しなければならず、そして人間はその中で作業をしている。

 

 かく言う私だって、実際にはその中の一人なのだ。たとえ、本人がどう思っていても、目に見えないフレームの中で作業していることに変わりはない。決して快適とは言いがたいが、不快だと言ってキレてしまったら、自分が穏やかでいられる時間をムダにするだけで、なんの解決にもならない。

 

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 それは果たして幸なのか、不幸なのか。

 考えたこともなかった。考えたことがあっても、既成概念に囚われて、窮屈は不快であると信じ込んでいたかもしれない。

 既に答えが出ているものに対して、思い惑うことは恐らく、滅多にあるものではない。

 夕食の献立を考えるのは、夕食の献立を何にするか決めていないからだろう。

 何しようか考えるのは、何をしようか決めていないからである。

 どう言う記事を書いたらいいか考えるのは、どんな記事を書くか決めていないからである。

 

 そう、私はいつだって思い惑っている。

 この人生にはまだ、答えなど存在していないのである。

 答えが出てしまったら、いったい何故、生きていられるのだろうか。