一月も半ば過ぎてパックリhalf moonコンニチハ

 

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 年末年始の浪費の傷痕がまだ癒えていない。浪費といえば、心の何処かに隙間風が吹くような、悪しき習慣のような印象で、それを意識するとまた、傷口が拡がりそう。

 消費と浪費の境界線は何なのか?

 

 恐らく、最低限の生活に必要か否か、という事だろう。

 しかし、それを理解したところで迅速に改善できる命題でもなく、浪費人間となってしまった己の不甲斐なさ、意気地無さ、甲斐性のなさと三拍子が揃い、いわゆるNASAも真っ青だ。

 

 最近、一時代を築いてきた人達が、それぞれの事情から引退している。

 或いは、引退のみならず、訃報として接することも。生きて去るのが引退ならば、死して去る引退が訃報かもしれない。どちらも根は同じだと感じる。

 悲しいとか悔しいとか、そういう想いを抱くことはあっても、そこに踏み止まるほど意思が強くない。脆弱な、自分の意思に悲しくなる。

 

 この記事は取り留めもない、脳内を流れてくる言葉を文字に表している。

 回転寿司で皿が流れてくるのを、手に取り食べるのと同じ。面白いのは、回転寿司もまた、消費、浪費の雛型に見えてくること。

 世界を流れてくるあらゆる事象を、我々は様々な形、方法で受け取り、それを次から次へと消費していく。

 

 資本主義は、人間の生命活動に消費という風を吹き込んだ。それが善いか悪いかは、各場面ごとに異なるだろう。しかし、いつも善か悪かで判断するのは、悪しき風潮だと思うが、判断が求められる場面は多い。

 

 太古の昔、言葉が無かった頃はどうだったのだろう。

 パンドラの箱に入っていたのは、もしかして言葉では無かったか。言葉を得たために、人間は表現を覚えた。表現するが故に、ヒトは他の生物と差別化を図ってきた。

 進化、進化と言っているのは、実はそんな差別化のことかもしれない。本当はまだ、類人猿のままなのに、「進化」だと思っている差別化により、他より優れていると錯覚しているのだ。

 

 ああ、哀れなり、人間は。