ブルーズの洗礼に飛び散った先例

 

 ROBERT JOHNSON,MUDDY WATERS,HOWLIN’ WOLF,ALBERT KING,ALBERT COLLINS,MAGIC SAM,LIGHTNIN’ HOPKINS,………。

 好きなブルーズの巨人達を挙げれば、枚挙に暇が無くなり、膨大な文字数を消費しなければならない。日頃、文字数を大量消費しているのに、何を今更言うかと思う。

 

 時々、どうしてブルーズを好きになったのだろうと考える。

 分かるわけがない。理屈で好きになったんではないし、好きになるために理屈を用意しなければならないなら、それだけで嫌いになれそうだ。否、嫌いになってやる!

 

 最近は好い音楽が巷に溢れていて、聞こえてくると感動することも多い。心を動かされるものの、音源を手に入れたいと思えるものは稀で、何というか、整い過ぎている。確かに、音響技術の発展はめざましく、おそらく半世紀くらいの間に激変したんじゃなかろうか。

 

 整っているということは、違和感を感じることが少ないということ。

 芸術を論じるのは面映ゆいが、一つ言えるとすれば、日常との不和、違和感のようなものが存在することで、芸術は芸術たりうると考えている。

 例えば、リンゴは赤い。我々はそれを赤いものとして教育され、刷り込まれてきたからこそ、画用紙の中央に紫のリンゴが一つ、ポツンと描かれていたら不思議だし、言葉にならない違和感を覚えるのではないか。

 

 そして、その違和感が我々の内に芸術を喚起し、何でもない事さえも、まるで大いなる意味を孕んでいるように思わせる。錯覚とも言えるそれは、間違い無く、錯覚だ。

 ただ、錯覚を錯覚と認めてしまえば、そこに内在する大いなる意味を獲得し損ねてしまいそうで、芸術ということにして、回答を留保する。私はそう思うが、これも錯覚かもしれない。

 

 ブルーズを好きになったことで、夜の街へ繰り出すようになった。と書くと、なんかハードボイルド臭が漂うが、ただ、友人の演奏を聴きに行って、あわよくば好きな酒を喉へ流し込み、人が集まり和気あいあいとした空気を吸い込んで、帰途に着くだけだ。

 それでも、そういう場でしか会えない人達がいるし、弾む会話を聞いているだけで楽しくなる。酔っているせいもあろうが。

 

 さて、どういう話を書こうか忘れてしまった。