2017年雑感 其の一

 

 もう年が暮れようとしていて、10日後には新年を迎えているそうだ。

 心なしか、人心も慌ただしく駆け巡っているようで、後ろから来た車に抜かれたり、鈍くて警笛鳴らされたり、二段階右折は右折の合図出しながら左に行く訳で、なんちゅう迷惑な陽動作戦だと思ったり、原付生活にホトホトホトトギスって感じで、甚だ困惑しております。

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 社会人になるというのは、要するに会社人になるということなのだろう。

 個性を大事にという言葉の裏には、常識の枠内でという含みがあることを忘れてはならない。ただ、常識という、いわば退廃的な束縛の上に本来の個性は成立し得ないことも、同様に忘れてはならない。

 一歩常識の外に出てしまうと、非難集中、誹謗中傷が待っている。常識という蚊帳の内にいる限り、安全なのだ。

 

 鍼灸師になった、最初の目的を見失いそうになるのは、私がこの業界に生きている証だ。

 昭和の名人達が命懸けで守り、将来へ残そうとした鍼灸の姿は影を潜め、科学的根拠というギロチンの下に東洋医学が裁かれ、その真髄が伝えようとする、西洋医学からでは見えないもう一つの視点が粛清されていく。

 鍼灸が生きていくためには西洋医学に擦り寄ることが必要なのか?

 東洋医学を確立させ飛躍し、精錬させていくべきではないのか?そして、西洋医学と東洋医学は競合しながら互いに監視、成長しあえる関係を築くべきではないのか?

 

 生意気かもしれない。若造の戯言かもしれない。でも、それの何が悪いというのか。

 皆が皆、上意下達にいつでも従順だったら大惨事が起きたとき、拾える命でさえ落としかねない。いつもとは異なる視点が存在することで、そこには疑問符が存在しており、切り返すきっかけになりうるのだ。反証は確証である。

 

 20代、ギタリストになりたいと宣っていた。だけど、何もせず弱気になって今、ここにいる。

 過ぎた時間を後悔しないためには、それを埋めればいい。別の何か、例えそれが無理であっても。無理が無理であればこそ、後悔を忘れることはできる。そして、大切な気持ちも。

 しかし、後悔が何故、常に胸を締めつけるのかを思い返せるならば、後悔の原点に引き返す時期かもしれない。

 

 書いていたら熱を帯びてきて、長くなってしまったのでまた、次回に。