八月の贈り物

 

 この一ヶ月は本当に、激動だった。

 これほどまでに激しく動き回ったのは、剣道の稽古でもなかった気がする。

 月の中頃までは自転車で、江東区江戸川区など走り回り、大袈裟でもなく、滝のような汗をかいていた。さらに今月は、やたらと雨が多かったから最早、汗か雨か、どうでもよくなっていたり。

 中旬に原付免許を取り、それからは人生初のバイク生活が始まったけれど、公道の怖さにビビっている。現在進行形、正直、まだ怖い。

 

 三十代半ばに差し掛かるくせに、何をウブなこと言ってるのかと笑われても、こればかりは否定しようがない。怖いものは怖い、それでいいんだと開き直る。

 思えば、不安や恐怖を感じないよう避けて生きてきた、そんな気がする。それはつまり、人との関係さえも避けて生きているに等しい。不快な感情を乗り越えず、快適な感情を分かち合えない、それは真空状態だ。

 

  ああ、人は人を愛おしむように出来ているのだ。

 人が独りで生きられると思う時、独りで生きるという言葉と共に生きることで、たとえそれが物言わぬ空気の振動だろうと、温かく支えられている。そう思う。 

 

 それでも人には人の温度が、感情が、そして表情が必要なのだ。掛け替えのない、愛し慈しむべき存在の不在は、まるで雑巾を絞るように、心から血も涙も枯れさせる。

 

 もし、それでも誰か、掛け替えのない存在がいて、自分自身の心という鏡に映し出されたら、大声で泣き叫ぶかもしれない。或いは、鏡の向こう側にしかないそれを恨み、地面に叩頭し、鏡を殴り続けて出血するかもしれない。

 その鏡は喪失を思い出させる。この残酷な装置は一体、どんな意図で此処にあるのだろう。

 

 私はいつか、今日見た空を思い出すだろうか。

 それとも、その日見る空を、心から楽しんで生きているのだろうか。

 

 今からの歩みを大切にしよう。そう、きっと、それしかない。

 いつか見るであろう、何処かの空が笑っていると信じて。