変化というもの

 

 カタチには、色々あると思う。マル、サンカク、シカク、ヒシガタ、ダエン、バツペンタゴン、など。

 私が昔から好きな言葉に、『水は方円に随う』というものがある。あるという事は、無いわけではない。日本語特有の二重否定、分からなくもなくはない。三重?

 

 何言っているか、分からない。

 

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 さて、本題。

 ヒトが変化を求めるのは、どういう時だろうかと考える。

 それはきっと、その人次第だという結論に至った。

 

 (完)

 

 …というのは嘘で、まだ書き足りない。

 場合によっては「裏切り」、「変節」と言われて叩かれる事もあるが、それが信念や強い想いに駆られた上の、その人自身の内面から湧き起こるものなら、寛容でありたいと思っている。

 

 むしろ、寛容であってもらいたいというのが、私自身の切なる願いだ。

 個人的な願望でも、悪くなくはなくなくないと思っている。もはや、多重否定すぎて、どちらの意味になるのかさえ、考えたくない。

 

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 個人が抱える想いは千差万別。

 それはまるでトマトを見た時に、ある人は「赤い」というのに対して、別の人が「美味しそう」というようなもの。

 それを一方の見方、感じ方に束縛すれば反発が生まれ、その反発が新たな反発、反感を招く。

 

 いわゆる、トマト論争というものである。

 トマトでなくても良いのだが、成り行き上、トマトに固定してしまった訳で、「何でトマトなんだ!」、と、新たな論争を起こしても、私にはその責任は重過ぎる。快く辞退申し上げる。

 

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 当初、何を書こうとしていたのかが分からなくなり、意外と上手く描けたトマトに満足。

 人生ってそんなもの、そうやって毎日、過ごすことさえできれば、きっといつかは大往生。

 

 何となく、書きたかったことと違う気がするけれど、まあいっか。