誰のための便利なのか

 

 会社の健康診断を予約するのも、読まなくなった書籍買取の集荷依頼も、そのほかにも私が知らないところで暗躍しているであろう、あるいは活躍しているQRコード。誤って、QPコードなんて入力しようものなら、マヨネーズが届いてしまうかもしれないアレ。

 今や、買い物でさえもアレでできてしまうというから、QRの侵略といった方が正しいのかもしれない。ちなみに、そういうアプリをスマーフォに入れ~てるけど、まだ使ったことはない。スマーフォ持た~ずに出か~けることも多く、もはや目的を見失っている次第...。面目な~い。

 

 こういう時代を迎えられたのは、戦後日本の経済や社会、文化を担って支えてきた人達がいて、でもその人達も還暦を迎えたり、あるいはもう過ぎていたりして、日常生活に不便を感じることが多く、その中で苛立ちや不満を感じることも多いように思う。

 それまでできていた、当たり前の所作さえもできないということは想像以上に、苦痛だ。そしてその苦痛をうまく伝えられないのならば、内側に言い表しようのない鬱憤も溜まる。それは、もしかしたら現代を生きる人間誰しもが抱える、「毒」なのかもしれない。

 便利さは諸刃の剣で、便利であるが故に便利で在らざるを得ない側面を感じさせる。

 

 少し評論家めいた記述を並べてみたけれど、私は普通のアレである。アレだからという訳ではないが、アレとしてもう少し自覚をもって励みたいと願う。

 そのアレがどれかはもう少し慎重に見極める必要があるし、アレについて述べることが地球に対し、どの程度影響をもたらすかそれは誰かが計算するだろうし、計算しないかもしれない。

 そうこう言う裡(うち)に、アレでなくとも構わないと思うに至り、今はただ、懺悔な毎日である。ザンゲ~ザンゲ~と、膝を曲げ腰を折り、翼を広げて祈っている姿は、誰にも見せられない機密情報である。

 

 怒りは煮え滾る毒。それは外へ向かう。何故なら、自身で抱えるには熱いから。

 妬みは甘美な毒。それは内に溜まる。何故なら、その甘さが己を満たすから。

 

 追伸。若いころ聴いていた時よりも、今聴く方がSLIPKNOTのよさに気づきます。

 

 

 

飽和した日常の先に見つけたスルメイカ

 

 小さなメモ帳がなくなり、このブログ上に載せてきた、弛緩したイラストが描けなくなっているけれど、忘れなければ仕事帰りに買ってこよう。と、今までに何回も思ってきたはずなのに、いつも忘れてしまう。

 でも、忘れることは善いことだと思う。勿論、忘れていいものに限っては、という意味で。

 何かの何かで読んだけれど、忘れることは生命活動にとって、無益なもの、必要ないものを淘汰していく過程であるとか、今となっては読んだかどうかも定かではない。私自身の記憶が捏造されているとすれば、捏造した記憶も忘れてしまいたい。

 何もかも記憶して生きるなんて、その方が残酷だろう。忘れたい風景や言葉、態度さえも忘れられないなんて、それはどんな罰なのかとも思う。ただ、もし隣にすべてを記憶している人がいるなら、それはそれで善いのかな。忘れて苦しむことも、忘れられずに苦しむことも、この世界に散りばめられた破片のようなもの。

 せめて皮膚を切らない程度に、受け容れたっていいように感じる。

 

 秋の空気は嫌いだ。でも、湿気も花粉もなく程好い,肌触りが好きでもある。

 忘れた景色が、ふっと目の前を覆う。その景色が好い景色か、悪い景色か分からないけれど、思い出すことで辛うじて生きているようにも感じてならない。好い景色なら箸休め、悪い景色なら箸休め、って結局は箸休め。それくらいが丁度いい。

 

 凄く好きで、朝も晩もそれに関わっていることが幸せなことがあるとして、何かの理由でそれを嫌いになっても、それはそのものを嫌ったわけではなく、因果で生じた歪みなのである。なにも変わってはいない、少しくらい距離を置いたところできっと、「何やかんや、ずっと想っているじゃん」ってなるだろうし。

 

 忘れなければどうにでもなる。忘れてもどうにかなる。

 なぜなら地球は丸いから。

 

 

 

 

あの日のこの気持ちその瞬間にどんな塩梅で

 

 個人情報保護士認定試験、受けてきました。

 試験は受けることに意義がある、だから結果なんて気にするなというモットーを胸に抱き、駒場東大前駅で下車。内心、ガラスのハートはグシャグシャでした。というか、グシャグシャにしてやりました。

 駅から外に出てたら、まあ、あまりの好天で。試験など忘れてどこかピクニークに行こうかーなんて、そういう柄ではないけれど。そういう気持ちが過ったことは、夜汽車のみ知る秘密でございましょう。

 

 結果、どうなんでしょうね(あまりに他人事すぎるか)。

 命まで取られるわけではないし、来月には分かることだから放置しておきます。きっと忘れた頃に、カラスが鳴いて思い出すのかもしれません、ええ。

 

 それはさておき。

 数時間後には一念発起して購入した(悪魔の分割払い…)ノートパソコンが届くので、これから暫くは生活が華やぐだろう。仕事も面白くなってきて、生活の方も華やいだりしたら、夜道で豆腐の角に頭をぶつけてしまわないかと、不安で仕方ない。

 豆腐が落ちている夜道に出会う事が、そもそも無いんだけど。

 

 さてと、新たなデバイスを迎える準備をしよう。

 

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 それにしても、読みたい本ばかりが増えていって、半ばフリーズ状態だ…。

ヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3

 

 

 

数学嫌いの数学好きな文系人間

 

 私は、根っからの文系一派である。

 思い返すと、小学生の頃に図書室でコナンドイル著『踊る人形』を借りて読んだ時から、私の文系生活が始まったと言えなくなくなくもない。

 何もしなければ、何もない。それが人生であると思うし、ではそれが全て否定的なものかと言うと、決してそう言うことではないと思う。何かしなければならないとすれば、何かしなければならないと思うからで、必ず何かがあるわけでもない。

 肯定しているのか、否定しているのか最早、分からなくなっている。

 

 そういえば最近、数学の本を読む機会が増えている。いきなり?

 数学とかいうとインテリ源ちゃんに思えてならないのは、文系人間が抱える永遠の謎、いわゆる、理系コンプレックスだろうか。コンプレックスって複雑系とか訳したはずだけど、理系複雑系って言葉が、複雑怪奇である。

 「理系」というフォルダの中の「複雑系」というフォルダを指しているのか。もう、この文章自体が複雑すぎて把握できない。

 

 数学の参考書を読むと、数字とアルファベットと記号が並んでいて、だからパスワードって数字やアルファベット、記号の羅列で構成されているのだと納得させられる。

 納得はするが、理解はしていない。理解してはいないが、納得してしまえる器量はある。

 

 曖昧模糊とした東洋医学の世界を、数式や記号の配列で解明、あるいは共有することができれば、少しは善くなるのかも知れない。鍼灸の現場から離れたことを、今となっては後悔していないが、そこから離れたときに東洋医学の声が聞こえないこと、それが一番寂しい。

 限られた空間でしか共有されない、まるで門外漢はお断りと言わんばかりの狭い世界の物語みたいに。でも、東洋医学と区切ってしまうからそう思えるだけで、これは太古のヒトが生み出した文字であり、記号の配列なのである。

 

 分かれていると見えるなら分かれていようが、分かれていなければならないことはない。

 肯定も否定もないというのは、果たして肯定だろうか?それとも否定だろうか?

 

 正直、どっちだっていいじゃないかというのが、私の信念です。もう、元も子もない。

 

 古くからの中医学、伝統的な鍼灸医学がもっと強く広く根付くためには、もしかしたら治療と経営が陰と陽みたいに、付かず離れずであることがいいのかも知れない。

 鍼灸師は治療に専念し、経営は経営者に任せる。しかしながら、底流には必ず同じ想い、信念が流れていなければならない。あるいは、鍼灸院の財務や経営の部分は鍼灸師が携わるべきではない。

 院の存続が個人の生活の基盤となる以上、無理もできないし、否が応でも利益を見なければならなくなる。「経営とはそういうもの」かも知れない、それならばなぜ、最初から経営者を目指さずに鍼灸師になったのだろう。

 

 仮に鍼灸医学がボランティア、無償となっても構わないと思っている。むしろ、そうあってほしいという願いもある。そのためには、それで鍼灸師が生活するに足りるバックアップがなければならない。でなければ、単なる自殺行為にしかならないから。

 それで保険は高額な、高度な医療に向けたほうがいい。高度な医療がもっと普及しなければ、経済的損失や世帯当たりの負担は膨れ上がるだけではないか。

 

 あ、すごい熱弁。そして長文、それからおやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

見切りと区切りを足したらそこにキリギリス

 

 久しぶりに、ダンシャリした。

 漢字で書くと生真面目な印象にハマってしまうので、取り敢えず、カタカナに替えてみる。 うん、こっちの方が柔らかい。と言っても、主観に過ぎない。

 某MVNOに切り替えてから数ヶ月経ち、本当はその時点でキャリア解約できれば良かったのだが、大人の事情、ヒーロー参上など諸々の事情が重なり、押し合いへし合いで先延ばしにされていた。

 

 そして、今日。ようやくキャリア解約に踏み切った。

 確かに、安定した盤石の通信網などは現代生活には欠かせない、個人レベルでの重要インフラだろうけれど、料金体系が分かり難くもあった。ましてやMVNOについて色々調べ始め、実際に契約した頃からは尚更、長年使ってきたのに知らないこと、見えないことが多く、モヤモヤし始めていた。

 勿論、自身の不勉強、無理解と言った要因もあるはずだが、そこは棚上げしておこう。

 

 解約前に契約内容を確認したところ、十数年と数ヶ月(ここまでマスキングしたら書く意味あるのか?)、キャリア契約していたらしい。その間、ずっと同じキャリアを使っていたが、信念や愛情という殊勝なものではなく、兎に角、手続が面倒だったからに過ぎない。

 生粋の面倒臭がり屋としての矜持にかけて、面倒な手続には立ち向かう気など、さらさらなかった。こっちには信念があるし、むしろ、信念しかないと断言できる。

 

 生まれて手にした携帯電話はTu-Kaだった。

 

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 今ではスマートフォンが当たり前で、ガラケーでさえも古いといわれてしまうけれど、まだ20年も経っていない。私が高校生の頃、もう20年くらい前で、同級生が持つPHSでさえもすごい代物だったと覚えている。

 私の携帯電話キャリアは大手キャリアと共にあったが、そういうダジャレでさえも冷やすことのできない猛暑に解約を決意したとか、しないとか。

 手続はあっという間に終わった。実際にはあっという以上に、返事をしたり話した言葉はあったけれど、コンプライアンス上の理由から「あっという間」ということにしたい。

 

 さて、キャリア端末の充電が終わったら初期化して売るか、リサイクルに出すか、リサイタルを開くか考えなければ。

 動作確認が取れていればSIMを差して使えるが、iPhoneのAPN設定はプロファイルのインストールとかいって、少し面倒なので下取りに出すのがいいかも知れない。

 

 その前に、昼寝でもしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホラマタアツイナツガキタ

 

 熱を乗せて

 

 風は今日も

 

 大地を走る

 

 熱は喜ぶ

 

 熱い身体を

 

 冷ます風の

 

 優しさに

 

 風は喜ぶ

 

 冷めた心を

 

 温める熱の

 

 力強さに

 

 お互い憎んでも

 

 マイナスとマイナスを

 

 かけるようには

 

 いかないものさ

 

 それならいっそ

 

 プラスとプラスを

 

 かけてみよう

 

 それはつまり

 

 お裾分け

 

 それからたぶん

 

 痛み分け

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見上げれば空 見下げれば土

 

  浮いては沈み

 

  沈んでは浮かぶ

 

  ぷかぷかぷかぷか

 

  何も聞こえない

 

  何も言わない

 

  それでも聞こえる

 

  赤い大地

 

  青い空

 

  絡まる中点で

 

  波打つ鼓動に

 

  息を潜める

 

  肉体から離れていく

 

  彩色の放物線を

 

  見守りながら

 

  私は私ではなくなる

 

  いつからだろうと

 

  思い出そうとしても

 

  何一つ思い出せない

 

  私は私を失いながら

 

  色褪せた放物線から

 

  色鮮やかな放物線を

 

  歩み出して逝く

 

  徐々に朽ちて逝く

 

  螺旋は生々流転

 

  生老病死の波を

 

  泳ぎ渡る先に

 

  咲く彼岸花

 

  悲願なら散らすな

 

  此岸にて志願せよと

 

  花が微笑むように

 

  ほら朝日が

 

  生命の扉を叩いている

 

 

 

  

 

  

 

 

 

  

 

 

 

 

心頭滅却せば火もまた涼し

 

 専門学校時代、残りの一生を鍼灸師として過ごしてゆくものだと強く思っていた。そうしなければ死んでしまう方がマシ、とさえ公言して憚らなかったように思い出す。

 でも、鍼灸師から離れても生きている。そして今なお、生きている。恥ずかしさはない、きっと廉恥なんてものはどこかにおき忘れてきたのだろう。

 恥知らずと何度言われたことか、思い出せない。忘却の意味は、生きることに抱える必要のない事象を切り離すことで、生命を永らえさせることにあると思う。

 

 あの情熱は何処へ去ってしまったのだろう。まるで酷い熱病に罹ったかのような、激しい発作はもうない。私は、過去を騙しているのだろうか。未来さえも欺き続けるのだろうか。

 しかしながら、胸の内は晴れやかである。語弊がある言い方ではあるけれど、嘘偽りなく、スーッと風が抜けるように、晴れ晴れとした気持ちなのである。

 とは言え、思い切り「いえーっい!」と言うものではなくて。思ってもみなかったことが突然、肚に落ちた時のような快感に近い。

 

 高校生の頃から願ってきた人生五十年が、誰が提言したものか、人生百年時代などと言われるようになってしまい、憂鬱は募るばかり。それなのに、胸の内は妙に抜け切っているから不思議だ。

 この肉体はとどのつまり、生臭い皮袋。それは生身に対する侮蔑ではない。

 

 どんなに気取ってみても、どれほど地位や富を築き上げたとしても、実体なんてものは唯一つ。

 笑おうが泣こうが、怒りに震えようが、此処其処に在る生命は一つだけしかなくて、それは上下左右に伸びるものではないから、その実体を離さず忘れず、ただ此処其処に在るだけでいい。

 

 白色光やLEDでは、降り注ぐ太陽光の代わりになれない。

 冷蔵庫やエアコンでは、深緑の隙間を流れ下る冷水のように、肉体に染みる心地好さは生み出せない。

 精巧な電子回路や半導体は、人間の代わりに緻密な作業や高度な処理はできるかもしれないが、其処で息づくヒトの大切さ、優しさに代わることはできない。

 

 死を想え。その時、其処には生命があることを忘れずに。

 死は死を想うことなどできない。生きているからこそ、そこに想いが生まれると信じる。

 

 さて、何を書こうとしたのか忘れてしまった。

 

 

往けども往けどもかたつむり迷宮

 

 激務に追われる日々、不思議なほどに爽快。もしかしたら、私の血脈にはドMの精神がフル稼働しているのかも知れない。ドMのMは、mindのMとは言わないけれど。

 「忙」という文字を、「心」を「亡くす」ネガティヴな言霊と思い込んできたけれど、時にはそういう状況の方がリラックスできることもある。というと、まるでワーカホリックの戯言に聞こえようが、決してワーカホリックな人間ではない。

 ただ、根が真面目なだけである。

 

 数年ぶりにオフィスワーカーとなり、座位での作業が増えたことで右臀部が痛むようになった。

 願わくば、持病の痔疾が再開されないことを。私の願いは切実であり、決して切れないことなのである。よくキレる時代とは逆行し、切れない事のみを願う、平和主義とはこんなにも身近だったろうか。

 もう、あの頃には戻れない。座ることに幸せだけを感じていた、素晴らしき時代には。

 

 心の底から願うことがあって、そこに注ぐ愛情が満ちても満ちても決して溢れないほどならば、方法に限界など設けるべきではないと思っている。一見、関係しないような手法が、想像しなかった未来を見せてくれることもある。

 限界というものは所詮、人の心に生まれた粘着質の理不尽。

 

 前例がないことを基準にすれば、必ず、新しい例は生まれなくなる。

 約束されていない未来に、過去を例に取って約束させようなんて横暴である。過去にはそれで上手くいったかも知れないが、それはあらゆる確率を排除した、純粋な必然だったのだろうか。

 

 過去を否定することは、歩んできた足跡を消されるように、不安と怒りの衝動に駆られる一種の暴力ではあるけれど、ヒトはそこには存在していない。足跡はもう、遥か数歩先に着いている。

 ヒトがいるのはそこであり、而して、そこではないのだから。

 

 私は私自身、その過ぎ去った歳月を否定するが、それは自身を否定する物ではないと信じている。

 今様に表現するならば、私は私のキャッシュを削除しているにすぎない。過去の歳月というアプリを、人生のシステムからアンインストールしたわけではない。

 

 さて、そろそろ私の臀部が悲鳴をあげ、限界だと訴えている。

 前言を撤回するわけではないが、「ヒトはケツに優しくあれ」という古いことわざに敬意を評して、今日はこれくらいに。

 

 

 

 

 

 

 

男三十五にして思惑

 

 「不惑」ではない。「誘惑」でもない。ただの「思惑」。

 思い、それから惑う。あるいは。思いながら惑う。正直、時系列はそんなに大切ではない、この場合には。

 

 大切なのは、私がただ、思い惑っていることなのだから。

 とはいえ、それは重篤な苦悩などではなく、単純に思い惑っているだけで、この言葉を重ねれば重ねるほど、正気を疑われそうだ。否、もう既に疑われているだろうし、意外に正気があること自体を疑われていてもおかしくない。妙に納得。

 

 昨日までの雨も上がり、すっかり晴れ上がっている。

 ここのところ、気候も思い惑っているのだろうか。だとすれば、心強い同志を得たことになり、私が思い惑う必要も消えて無くなると思う。同志が来た途端、同志ではなくなるなんてとても酷い話である。

 

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 毎度のことながら、こうやって文字を入力する際、予めテーマを決めるということもなく、脳内の神経活動や体内の脈拍に沿って適当に、否。適切に記事を書いているのだが、読み手のことを意識していないのは、一度でも読んだことがあれば容易に、気づかされることだと思う。

 すごく貴重な情報を発信している訳ではなく、かと言って、貴重な情報を得るために受信している訳でもない。では何故、大量の文字を消費し、ある程度の時間と労力を割いてまで入力しているのかと問われると、誰か教えてください、何故でしょうか?

 

 それにしても、窮屈な時代である。他の時代を生きたことがないので、実は他の時代と変わらないのかもしれないが、今は膨大な情報量や処理すべき案件が急増傾向で、、それらを管理するにはあちらこちらに枠組みや箱、檻などを用意しなければならず、そして人間はその中で作業をしている。

 

 かく言う私だって、実際にはその中の一人なのだ。たとえ、本人がどう思っていても、目に見えないフレームの中で作業していることに変わりはない。決して快適とは言いがたいが、不快だと言ってキレてしまったら、自分が穏やかでいられる時間をムダにするだけで、なんの解決にもならない。

 

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 それは果たして幸なのか、不幸なのか。

 考えたこともなかった。考えたことがあっても、既成概念に囚われて、窮屈は不快であると信じ込んでいたかもしれない。

 既に答えが出ているものに対して、思い惑うことは恐らく、滅多にあるものではない。

 夕食の献立を考えるのは、夕食の献立を何にするか決めていないからだろう。

 何しようか考えるのは、何をしようか決めていないからである。

 どう言う記事を書いたらいいか考えるのは、どんな記事を書くか決めていないからである。

 

 そう、私はいつだって思い惑っている。

 この人生にはまだ、答えなど存在していないのである。

 答えが出てしまったら、いったい何故、生きていられるのだろうか。