見上げれば空 見下げれば土

 

  浮いては沈み

 

  沈んでは浮かぶ

 

  ぷかぷかぷかぷか

 

  何も聞こえない

 

  何も言わない

 

  それでも聞こえる

 

  赤い大地

 

  青い空

 

  絡まる中点で

 

  波打つ鼓動に

 

  息を潜める

 

  肉体から離れていく

 

  彩色の放物線を

 

  見守りながら

 

  私は私ではなくなる

 

  いつからだろうと

 

  思い出そうとしても

 

  何一つ思い出せない

 

  私は私を失いながら

 

  色褪せた放物線から

 

  色鮮やかな放物線を

 

  歩み出して逝く

 

  徐々に朽ちて逝く

 

  螺旋は生々流転

 

  生老病死の波を

 

  泳ぎ渡る先に

 

  咲く彼岸花

 

  悲願なら散らすな

 

  此岸にて志願せよと

 

  花が微笑むように

 

  ほら朝日が

 

  生命の扉を叩いている

 

 

 

  

 

  

 

 

 

  

 

 

 

 

心頭滅却せば火もまた涼し

 

 専門学校時代、残りの一生を鍼灸師として過ごしてゆくものだと強く思っていた。そうしなければ死んでしまう方がマシ、とさえ公言して憚らなかったように思い出す。

 でも、鍼灸師から離れても生きている。そして今なお、生きている。恥ずかしさはない、きっと廉恥なんてものはどこかにおき忘れてきたのだろう。

 恥知らずと何度言われたことか、思い出せない。忘却の意味は、生きることに抱える必要のない事象を切り離すことで、生命を永らえさせることにあると思う。

 

 あの情熱は何処へ去ってしまったのだろう。まるで酷い熱病に罹ったかのような、激しい発作はもうない。私は、過去を騙しているのだろうか。未来さえも欺き続けるのだろうか。

 しかしながら、胸の内は晴れやかである。語弊がある言い方ではあるけれど、嘘偽りなく、スーッと風が抜けるように、晴れ晴れとした気持ちなのである。

 とは言え、思い切り「いえーっい!」と言うものではなくて。思ってもみなかったことが突然、肚に落ちた時のような快感に近い。

 

 高校生の頃から願ってきた人生五十年が、誰が提言したものか、人生百年時代などと言われるようになってしまい、憂鬱は募るばかり。それなのに、胸の内は妙に抜け切っているから不思議だ。

 この肉体はとどのつまり、生臭い皮袋。それは生身に対する侮蔑ではない。

 

 どんなに気取ってみても、どれほど地位や富を築き上げたとしても、実体なんてものは唯一つ。

 笑おうが泣こうが、怒りに震えようが、此処其処に在る生命は一つだけしかなくて、それは上下左右に伸びるものではないから、その実体を離さず忘れず、ただ此処其処に在るだけでいい。

 

 白色光やLEDでは、降り注ぐ太陽光の代わりになれない。

 冷蔵庫やエアコンでは、深緑の隙間を流れ下る冷水のように、肉体に染みる心地好さは生み出せない。

 精巧な電子回路や半導体は、人間の代わりに緻密な作業や高度な処理はできるかもしれないが、其処で息づくヒトの大切さ、優しさに代わることはできない。

 

 死を想え。その時、其処には生命があることを忘れずに。

 死は死を想うことなどできない。生きているからこそ、そこに想いが生まれると信じる。

 

 さて、何を書こうとしたのか忘れてしまった。

 

 

往けども往けどもかたつむり迷宮

 

 激務に追われる日々、不思議なほどに爽快。もしかしたら、私の血脈にはドMの精神がフル稼働しているのかも知れない。ドMのMは、mindのMとは言わないけれど。

 「忙」という文字を、「心」を「亡くす」ネガティヴな言霊と思い込んできたけれど、時にはそういう状況の方がリラックスできることもある。というと、まるでワーカホリックの戯言に聞こえようが、決してワーカホリックな人間ではない。

 ただ、根が真面目なだけである。

 

 数年ぶりにオフィスワーカーとなり、座位での作業が増えたことで右臀部が痛むようになった。

 願わくば、持病の痔疾が再開されないことを。私の願いは切実であり、決して切れないことなのである。よくキレる時代とは逆行し、切れない事のみを願う、平和主義とはこんなにも身近だったろうか。

 もう、あの頃には戻れない。座ることに幸せだけを感じていた、素晴らしき時代には。

 

 心の底から願うことがあって、そこに注ぐ愛情が満ちても満ちても決して溢れないほどならば、方法に限界など設けるべきではないと思っている。一見、関係しないような手法が、想像しなかった未来を見せてくれることもある。

 限界というものは所詮、人の心に生まれた粘着質の理不尽。

 

 前例がないことを基準にすれば、必ず、新しい例は生まれなくなる。

 約束されていない未来に、過去を例に取って約束させようなんて横暴である。過去にはそれで上手くいったかも知れないが、それはあらゆる確率を排除した、純粋な必然だったのだろうか。

 

 過去を否定することは、歩んできた足跡を消されるように、不安と怒りの衝動に駆られる一種の暴力ではあるけれど、ヒトはそこには存在していない。足跡はもう、遥か数歩先に着いている。

 ヒトがいるのはそこであり、而して、そこではないのだから。

 

 私は私自身、その過ぎ去った歳月を否定するが、それは自身を否定する物ではないと信じている。

 今様に表現するならば、私は私のキャッシュを削除しているにすぎない。過去の歳月というアプリを、人生のシステムからアンインストールしたわけではない。

 

 さて、そろそろ私の臀部が悲鳴をあげ、限界だと訴えている。

 前言を撤回するわけではないが、「ヒトはケツに優しくあれ」という古いことわざに敬意を評して、今日はこれくらいに。

 

 

 

 

 

 

 

男三十五にして思惑

 

 「不惑」ではない。「誘惑」でもない。ただの「思惑」。

 思い、それから惑う。あるいは。思いながら惑う。正直、時系列はそんなに大切ではない、この場合には。

 

 大切なのは、私がただ、思い惑っていることなのだから。

 とはいえ、それは重篤な苦悩などではなく、単純に思い惑っているだけで、この言葉を重ねれば重ねるほど、正気を疑われそうだ。否、もう既に疑われているだろうし、意外に正気があること自体を疑われていてもおかしくない。妙に納得。

 

 昨日までの雨も上がり、すっかり晴れ上がっている。

 ここのところ、気候も思い惑っているのだろうか。だとすれば、心強い同志を得たことになり、私が思い惑う必要も消えて無くなると思う。同志が来た途端、同志ではなくなるなんてとても酷い話である。

 

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 毎度のことながら、こうやって文字を入力する際、予めテーマを決めるということもなく、脳内の神経活動や体内の脈拍に沿って適当に、否。適切に記事を書いているのだが、読み手のことを意識していないのは、一度でも読んだことがあれば容易に、気づかされることだと思う。

 すごく貴重な情報を発信している訳ではなく、かと言って、貴重な情報を得るために受信している訳でもない。では何故、大量の文字を消費し、ある程度の時間と労力を割いてまで入力しているのかと問われると、誰か教えてください、何故でしょうか?

 

 それにしても、窮屈な時代である。他の時代を生きたことがないので、実は他の時代と変わらないのかもしれないが、今は膨大な情報量や処理すべき案件が急増傾向で、、それらを管理するにはあちらこちらに枠組みや箱、檻などを用意しなければならず、そして人間はその中で作業をしている。

 

 かく言う私だって、実際にはその中の一人なのだ。たとえ、本人がどう思っていても、目に見えないフレームの中で作業していることに変わりはない。決して快適とは言いがたいが、不快だと言ってキレてしまったら、自分が穏やかでいられる時間をムダにするだけで、なんの解決にもならない。

 

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 それは果たして幸なのか、不幸なのか。

 考えたこともなかった。考えたことがあっても、既成概念に囚われて、窮屈は不快であると信じ込んでいたかもしれない。

 既に答えが出ているものに対して、思い惑うことは恐らく、滅多にあるものではない。

 夕食の献立を考えるのは、夕食の献立を何にするか決めていないからだろう。

 何しようか考えるのは、何をしようか決めていないからである。

 どう言う記事を書いたらいいか考えるのは、どんな記事を書くか決めていないからである。

 

 そう、私はいつだって思い惑っている。

 この人生にはまだ、答えなど存在していないのである。

 答えが出てしまったら、いったい何故、生きていられるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鍼灸退職そして思うこと

 

 退職してから、いや、退職するずっと前から考えていたこと。

 色々あり過ぎて一々、思い出せないけれど。

 専門学校に通っていた頃、金銭での報酬ではなく、例えば自家製の野菜とか惣菜とか、その日の食事に困らなければ、そう言う対価もありじゃないかと考えていた。もちろん、周囲からは「それでは経営が成り立たない」と忠告されたが。

 その頃はそれ以上、掘り下げることもせず、相手の正論に納得したし、最近まで忘れてさえいた。

 でも、退職してこれからどう言う鍼灸東洋医学を目指すのかを考えていたら、まるで何年も会っていなかった友人が、急に目の前を通り過ぎたかのように、その思いが過ぎった。

 

 今までに鍼灸師として勤務していた時期は、非常に短いし、技術面で何かを習得したなんて言えるレベルではない。謙遜ではなく、本当に。

 ただ、将来設計を考えて始めた投資にハマり、この世界に「複利」「利子」と言うものがあることを学び、余裕があるときに数千円、注ぎ込んできた。株式であれば興味のある事業、分野に取り組んでいる企業を応援する気持ちで、また投資信託は仕組みが完全に分からないものの、株式よりもマクロな投資と捉えてきた。

 

 冒頭の、再会した「旧友」に投資を繋げたら何かできないだろうか。そう思った。

 もし仮に、鍼灸や治療での利益以外に、利益を回転させられる仕組みがあり、そこから生まれる利子等で運営できるとすれば、逼迫している社会保障費の抑制にも貢献できやしないか。

 もちろん、そう上手くいくはずもないけれど、やる前からやらずに足止め食っていたら、時間だけが過ぎて行ってしまう。

 

 社会保障費から脱却しつつ、利用者の負担を最小限に抑えることができるなら、超高齢化社会と言われて久しい現代日本で、必要とされる医療福祉領域へ、必要な費用を投じることもできるのではないか。

 

 まあ、そう言うことを考え始めたら、勝手に体が動き回り、そのビジネスに何が必要か、身につけるべき知識は何かを探り探り、今は個人情報保護士やIT関連の資格取得を目指しております。

 小規模で展開するならば財務を把握しなければならないだろうから、簿記の資格も取ろうと思いましたが、余りごちゃごちゃ詰め込むと、なにも身につかずに終わるリスクがあるので、試験を受ける時期をどうするか悩みますね。

 

 Nothing failed, because nothing been started.

 「なにも失敗してはいない。何故なら、何も始まっていないから」by 亥水庵

 

 来週からコールセンターで働きます。以上。

 

お灸を愛して四千年

 

 東洋医学は、ヒトだけを診るものではない。ヒトを造るモノ、ヒトが創るモノ、そういう全てを診ることができると思っている。

 ヒトはヒトのみでは人ならず、ヒトとヒトが関係することで人になるのではないか。何かの呪文みたいである。否、ただの屁理屈かも知れない。まあ、いい。

 

 社会保障費が大変なことになっている。2025年問題なんて言葉さえある。税金や保険料という、強制的に徴収するスタイルなど辞めて、いっそ「ふるさと納税」みたいに納付して貰えばいいと思う。

 そして確定申告で所得税控除の対象にするもよし、あるいは納めた額に応じて、所得税控除以上の特典をつけてもよし(もちろん色々なコースから選んでもらう)。それくらい柔軟に、面白く盛り上げたほうがいいんじゃないか。

 

 暗いニュースなのだから、それをさらに暗くして誰が喜ぶのか?ならばいっそ、明るくすればいい。

 だいたい、暗い。梅雨の湿度以上の、気持ち悪い陰湿さが漂い過ぎていて、呼吸でさえも重苦しく感じられる。日本という島国は、周囲を海に囲まれているから「湿」が多いのはわかる。

 中医学でも、痰湿が多いと倦怠感や無気力、易疲労感などが生じると言われるが、まさにそれではないかと思う。四千年の歴史は恐ろしい予言でもあったか。

 

 ちなみに痰湿が多く生まれやすい場合、お灸をすえるのが善い。お灸のみならず、火針や灸頭針などもあるので、気になる方はお近くの、鍼灸専門の治療院でご相談ください。

 とても曖昧な広告。誰が得するのだろう。

 

 あっち行ったりこっち行ったりしていたら、テーマを見失ってしまった。

 あ、そうだ。

 

 「ふるさと納税」と社会保障費のコラボについて、若干の上から目線で書いていたのだった。爆発しそうな社会保障費を善意の寄付で賄い、その見返りに所得税控除や、その他の返礼方法、魅力溢れる特典などで循環させていくことができれば、窮屈で重苦しい社会の空気を変えることができるのでは、と思っただけです。そして嫌われ者のマイナンバー制度と合わせることで、より一層、そのコラボの精度を上げることもできないか、とも。

 

 よく言えばひらめき、悪く言えば無責任な提案ですかね、これは。

 

 

 

奇縁は消えん…so,気炎を挙げよ!

 

 もう、語呂合わせ以外の意味は無いです。語呂合わせ?ダジャレ?

 さて、何か急に、新しいことを始める時というのは本当に心細いし、それが仮に前例のないことであれば尚更、不安を通り越した恐怖しか浮かばなかったりして、元の道に引き返したくもなります。

 でもそこで戻ってしまったなら、その先の人生はきっと、もっとモヤモヤした陰湿なものかもしれない、とも思ってしまったりして。最早、収拾がつかない状態、カオス。

 

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 年々、短気になっている自覚が芽生え、春はやはり新たな生命が芽生えるタイミングなんでしょう。

 もう、35歳です。言の葉には焦りはないなんて載せながら、正直、現状に焦りを感じ、自分自身への苛立ちも抱えているのです。正直者ではないのに、「正直…」と言っているあたり、不遜だなと思いますよ。

 

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 考え方が甘いと言われることがよくあり、そこまで辛党でなければならないのかと疑問に思いますが、人は何故、甘い考え方を許せないのでしょうか?

 きっと許せないわけではなく、辛党に耐えて生きてこられた方からすれば、これまでの我慢をヒンヤリさせる隙間風みたいに、心地好いものではないからかもしれません。

 

 私は、人を叱るのがとても嫌いです。苦手という方が正しいかもしれません。

 もしも、いつでも、誰であろうとも正しく叱り、お互いに円満な関係を続けられるプロがいたら、可能な限り長く、そばにいて欲しいくらいです。ただ、その場合には間違いなく、報酬を支払わなければなりません。

 さりとて、今はその報酬を支払うことさえ出来ません。

 

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 彼だか彼女だかわかりませんが、そのプロが銀河系一の善意の塊で、「報酬などなくてもずっとそばにいますよ」などと言わない限り、報酬は支払わなければなりません。報酬は割いてくれた時間や労力、手間に対する礼でもあり、また相手の価値をどのように認めているかを伝える、コミュニケーションの一種だとも思います。

 

 ところで、私は人を叱るのが苦手、という本題を忘れてました。本題を忘れついでに、何故、そのテーマを振ったのかも忘れています。おそらく、書いた時点では何かしらのメッセージを抱えていたのに、叱るプロが消し去ってくれたのです。

 脱帽です。元からかぶっていませんが、形式上、かぶっていたことになります。

 

 老荘孫子から始まった、東洋思想好きからの東洋医学への偏愛。

 西洋医学とは違う過程や視点から、穏やかに心身の調和を図り、無理なく生きるための術。

 もっと明るく楽しく、思い煩うことなく、この時代を受け容れることができるなら、そのために東洋医学が成し得るものは何だろうか。医学だけではない、哲学にせよ、科学にせよ、東洋思想の根底にあるもの。

 

 原初、ヒトは無一文だった。否、生命全てが無一文だった。

 無一文から逃れるために着込んだのが現代なら、私が目指すところは無一文の頃の東洋医学

 

あ、別に、ストリーキングを奨励している記事ではありませんよ。悪しからず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春が北なら夏は東

 

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 と言う訳で、こう言う訳です。

 すでに、古代中国では別の属性の事象を同じ属性にまとめる方法があり、それが『五行』と言われるものですが、今風に手っ取り早く言えば「ジャンル分け」ですね。

 五行のいうことにゃ、「春」の方位は「東」。春には新しい生命活動が芽吹き、それは太陽が昇ることが始まりであるように、生命の始まりを示しています。太陽は東から昇ります。

 

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 そして、そういう全ての営みが始まるところに必要なものは、そう、何を隠そう、エネルギーです。「気」です。やる気、元気、気合、気質、病気、大気、気のせい、気の持ちよう、気になる、等等。

 それは必ずしも、均一なものではなく、人によって元来の大小多寡は異なりますが、生きている以上は皆、「気」を持っています。怪しい宗教ではありませんよ。

 

 もし、そういう気がないなら、それは気のせいで、気にならない方が気になる始末。

 もはや、何をいっているのか分かりませんが、気にしてはいられません。それくらい、生命にとっての「気」は離れ難く捉えどころのない存在。

 

 さて、退職しました。

 これは不意打ちですが、多分、世界中の誰もが気にも留めない内容ではないでしょうか。不意打ちを浴びせたところで、それがふいになってしまったというのは、人間社会が孕んだ不条理の一つかもしれないと思います。

 

 退職した後の予定は未定なのですが、色々始めています。

 個人情報保護士の資格勉強を始めた矢先、iPadExcelを始めたら妙に意気投合し、何の接点もなかった統計の本を読み始めたら面白くて、ITパスポート取得にも興味津々。

本当のパスポートすら持っていないのに、です。PASMOなら持っているのですが、都内の限られた改札の出入りのみですし、比較するにはちょっと心許ない。

 

 で、気の向くままにあれやこれやと始めたのも、今が春で、エネルギーがみなぎっているからでしょう。

 九星気学で私は、『九紫火星』というところに属しているようですが、昔から自分はもしかしたら火星人ではないかと疑っていたので、この一致には驚きました。地球上で生まれたはずの私が、火星生まれだったのかと考えると、身の毛もよだつほどの毛もないですが、わずかに残された身の毛がよだっていました。よだつって何か不明ですが、兎に角、よだりましたね。

 

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 で、その火星人の中でも「木」の性質を強く持っているとか。この「木」というのが『五行』でいう、「肝」「春」と同じ属性になるのです。

 それを言いたいがために、字数を稼いできましたが、ここまできて何を書こうとしたのか真意ははかりかねます。道具が並んでいます、はかり、かね、ます。

 まあ、どうでもようござんすね。

 

 さあ、春。さあ、動き出そう。

 

 

 

 

春眠暁を覚えなくともねんごろにゴロゴロ

 

 忙しいのは嫌いだ。

 怠惰なのかと聞かれると、それに答えるのは面倒くさいとしか言えない。頰を赤らめながら、ね。

 気虚、あるいは陽虚体質なのかと聞かれると、どこの鍼灸師ですかと聞き返したくなる。頰を赤らめながら、ね。

 それくらい、面倒臭い奴なのだ。頰を赤らめながら、ね。

 

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 もしかすると、古来からスギではないにせよ、花粉症があったのかもしれない。花粉症になり、春になると眼や鼻が疲れ果て、特に眼の疲れから眠くなることを考えれば、「春眠暁を覚えず」というのは、記憶力が悪い「春眠」という人物が、いつまでたっても「暁」という言葉を覚えられない、と言った故事ではなさそうだ。

 

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 私は、鍼灸師だ。否、鍼灸師であると思う。否、待てよ、鍼灸師だったかな。

 それくらい、本当に面倒臭い奴である。言葉を転がし、言葉に転がされ、結果として独りでゴロゴロと転がっている。恐らく、側から見ればそういう構図になっているだろう。事実無根だが、私も含めた誰もが皆、そこに気づいていない。

 転がることを恐れてはいけない。昔から、BLUESもROCKも転がる生き様を見事に歌っているし、鴨長明に至っては『方丈記』の冒頭で、祇園精舎の鐘の音がナントカって話していた。細かいことは覚えていられない。

 

 古い日本のことわざに、「おむすびころりんすっとんとん」とある。「すっとんとん」だったか「すっぽんぽん」だったか、私の記憶も春眠レベルでしかないけれど、兎に角、だ。

 転がる生き方は悪いものではなく、古くから人類の憧れであって現実に叶えられない焦燥が、やがて魍魎(もうりょう)と化し、人々を恨みつらみの妬みそねみに走らせる。

 

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 ここまで、話も転がってきたけれど、行き着く先が何処にあるのかは私にはわからない。

 書くのが面倒臭くなれば止めるし、読み手に面倒臭い奴だと思われれば本望だ。既存の枠組みに自分から嵌っておきながら、都合が悪くなった途端、その枠組みを否定する方が面倒臭い。

 

 そう、それも私だ。

 仮に、この身体が十二面体であっても、おそらく全ての面に面倒臭さが映るだろう。何を自慢してるのか、そもそも自慢になるのか疑問だけど、つまりはそういうことで、どういうことかは定かじゃない。

 

 さて、宴もたけなわで御座いますが、ここらで休ませてもらいます。

 春眠がどうしても暁を覚えられないようですから、私も一緒に、暁が覚えられなくなるまで、深い宵に落ちてみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰かの誰かはまた誰かの誰か

 

 もし、ムカつく上司や気に入らない部下、あるいは説教くさい教師がいて、毎日を怒りや侮蔑に明け暮れているとしたら。

 勿体無い時間の使い方をしている、と思う。生まれてから墓に入るまで、たとえ長い時間だとしても一度きりであることに代わりはないから。

 とは言っても、本当にムカつく奴はいるし、説教が趣味なのかと思わずにいられないこともある。

 

 今は、自分の心を本当に鎮めたい時、タイトルのように思うように、呼吸を繰り返しながら努めている。

 

 私にとってはムカつく上司でも、家族からはとても愛されているかもしれない。

 私にとっては気に入らない部下でも、友人のために身体を張る、勇敢な人かもしれない。

 私にとっては説教くさい教師でも、草木に毎日欠かさず、水をやる、心優しい人なのかもしれない。

 

 ムカつく、生意気、気に入らない。それはきっと、誰かもまた、自分に対して抱いている感情だろう。

 想像力の欠如。

 

 心配性でも、ネガティヴ思考でも構わない。

 自分のため、誰かのためにあーだこーだ考えてみる。その繰り返しが、想像力を豊かにして、もしかしたら、その甲斐あって一流のアーティストになれる日がくるかもしれない。しかし、なれなくてもいい。

 

 想像力を大事に。

 創造力を育てよう。