風呂とアフロに捧ぐ夜想曲

 

 一時期、アフロビートに激ハマりしていた。でも、アフロにならなかったのは、私のアイデンティティが坊主頭であることを、頑なに守っていたからだ。有り難う、本当に有り難う。

 

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 私がこのブログを始めた当初、この場を通して鍼灸東洋医学に対する偏見や、言い表しようのないモヤモヤを拭い去れたら、という熱い想いだけがあった。

 しかし今、読み返してみるとそういう熱い気持ちがあったのかさえ、よくわからない世界観だけが残り、不可解極まりないことになっている。

 

 そう、きっと東洋医学とは不可解でいいのだ。不可解であることで、東洋医学アイデンティティを保っている。私は一握りの独善で、そう思うようにした。

 何から何まで理論づけしたところで、それが仮説から生まれている以上、砂上の楼閣に安住しようとしているに過ぎない。

 

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 自由に動き回る野生の動物を、冷たい檻に閉じ込めようとするのは、その自由が捕獲者を不安にさせるからであり、その動物が不安を感じるからではない。

 だが、非情にも現実は、動物が不安を感じないよう、守るために檻へ入れるのだと誤解させる。

 論理は飛躍する。善い方にも、そして悪い方にも。

 

 このブログも飛躍した。何処へ向かっているのか、私にはもう分からない。

 それでも、少しでいいから東洋医学鍼灸が、緩徐に心身を癒す術であると伝えていきたい。

 

 過緊張や興奮、ストレスが交感神経系をピリピリさせ続け、心身の不調を招くのならば、その均衡を失した状態を快復させるため、安心と休息をもたらす術でもある。

 安心して眠れない世界に、眠るための時間を提供する、四千年来の魔法。

 

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 終わらない疲れに追われないよう。

 風呂の話は全く出て来ず、アフロの話が懐かしいけれど文脈には何の関係なく、結局、今回もまた、迷走しているだけだった。迷走神経が発達しているのかもしれない。

 

 そういう事で、またいつか。

 

 

 

さんま前線異状あり

 

 秋刀魚が大変なことになっているらしい。否、正確には秋刀魚自身ではなく、秋刀魚の恩恵に与る我々、人類が。

 ある日、突然。

 七輪の上でパチパチと身を爆ぜ、夏の暑さで疲れ果てた味覚を、唐突に揺り起こす香ばしさを身にまとう、あの魚が消えてしまったら。

 

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 秋刀魚が去った地球で我々が生き続けることほど、残酷で切なく、そしてともかく、腹が減ることはない。秋刀魚だってそう思っている、とは思わないが。

 ただ、我々が秋刀魚を恋しがるのは食べたいからで、秋刀魚が弁護士を呼んでしまえば、すぐにでも罪科をあげつらい、瞬く間に勝訴するに違いない。そうしたら、今度は私がその弁護士を呼ぶ番だ!

 

 そんな妄想に毎日、水をやり花を咲かせてみたところで、空腹というものは待ってくれない。

 彼らにはそもそも、待つという概念がない。それどころか、そもそものそもそも、空腹は「彼ら」ではない。

 

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 さて、これから先、気温が下がっていき、手足がよく冷えると言う場面が増えるだろう。

 私だって三十路を右折した頃から、特に足が冷えると感じる様になり、「あそこを左折していたら違う人生が…」と感慨に耽る様になった。遠い目をしながら、だ。

 人生は常に正しい道筋を示さず、選んだ先でどう対応するかを、ほくそ笑みながら観察しているらしい。

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 身体は神経系、内分泌系、そして免疫系といった三本柱に支えられている。もっと細かく言えば三本どころではないけれど、それは置いといて。

 それらは外界のあらゆる刺激に反応し、身体機能が乱れたり崩れないよう、まるで高層ビルの耐震構造みたいに調節する。

 

 それだけでも身体の負担は馬鹿にできないのに、最近ではなんやかんや、過労気味に思える。社会全体、あるいは人類そのものが。秋刀魚だって嘆いているはずだ、自信はないけれど。

 過労で緊張が高まれば、交感神経が休まず働き詰め、心底からリラックスすることさえできなくなる。

 

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 多忙に多忙を重ね身を粉にすればするほど、堪え難い辛さや苦しさが積み重なり、 それでも逃げられない毎日。もし、そんな日々の片隅にひとつまみ。

 ひとつまみの休息が得られるなら、鍼灸師としてその一助を担える存在でありたい。

 全身の機能をゆっくり中庸へ。ある時は降り注ぐ木漏れ日のように、またある時は穏やかな波のように。痛みは和らぎ、冷えは徐々に温もりへ。

 

 鍼と灸。私にはそれだけでいい。

 

 ところで、秋刀魚はどこいったんでしょうね。

 

 

 

 

 

 

 

鰯の身も心も信心から

 

 鰯。いわし、そしてイワシ。

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 台風が過ぎ、その影響か、秋が近づいてきたらしい。夏の疲れは今のうちに解(ほぐ)して、秋冬へと歩みたい。さて、東洋医学に「五季」という概念がある。

 

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 春には万物が生まれ夏に盛んとなり、長夏で変化し秋には収まり、そして冬に奥深くへ。

 生命も同じで、産声を挙げてから様々な成長を経て、やがて逝く。それはまるで、春夏秋冬。

 

 悲しい、寂しいと思えば、そこには悲しみや寂しさが居着くようだ。厄介なことに、それらはなかなか去ってくれない。不法占拠を生業としているのか、それらは心を占拠し続け、人はやがて苦しむが故に、霧の中に迷い込み、適切の意味を履き違えて、選択を誤ってしまう事だってある。

 

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 人は精密機械ではない。

 寸分の狂いさえも許されない生き方では、待ち受けているのは生きながらの窒息。いつか、どこかで壊れてしまう。日常生活の大半が精密機械に溢れかえった現代、人はヒトを機械化しようと、模索しているのかもしれない。

 

 ただ、それは無理だろう。機械化された人は、もはやヒトではない。私はそう思う。

 壊れた機械は修理されるが、壊れたヒトを修理するなんて言い方は、なんだか気持ち悪い。

 

 人という字は曲線だ。曲線は柔らかい。そして、柔らかさは生命の象徴でもある。やり直すことができる。いつからでも、どこからでも。それが人間らしさではないか。

 

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 寸胴鍋で一日煮込んだら、私も柔らかくなれるだろうか。

 誤って寸胴鍋に入らない様、その選択には気をつけていたい。私の切なる願いは決して、一家の夕食を飾る煮込み料理にはならないことだ。

 そんな願い自体、願いたくもないけれど、成り行き上、仕方なかったと言い訳しておこう。

 

 迷うとき、苦しむとき、己は何処に在るや。喝破せよ。

 

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八月の贈り物

 

 この一ヶ月は本当に、激動だった。

 これほどまでに激しく動き回ったのは、剣道の稽古でもなかった気がする。

 月の中頃までは自転車で、江東区江戸川区など走り回り、大袈裟でもなく、滝のような汗をかいていた。さらに今月は、やたらと雨が多かったから最早、汗か雨か、どうでもよくなっていたり。

 中旬に原付免許を取り、それからは人生初のバイク生活が始まったけれど、公道の怖さにビビっている。現在進行形、正直、まだ怖い。

 

 三十代半ばに差し掛かるくせに、何をウブなこと言ってるのかと笑われても、こればかりは否定しようがない。怖いものは怖い、それでいいんだと開き直る。

 思えば、不安や恐怖を感じないよう避けて生きてきた、そんな気がする。それはつまり、人との関係さえも避けて生きているに等しい。不快な感情を乗り越えず、快適な感情を分かち合えない、それは真空状態だ。

 

  ああ、人は人を愛おしむように出来ているのだ。

 人が独りで生きられると思う時、独りで生きるという言葉と共に生きることで、たとえそれが物言わぬ空気の振動だろうと、温かく支えられている。そう思う。 

 

 それでも人には人の温度が、感情が、そして表情が必要なのだ。掛け替えのない、愛し慈しむべき存在の不在は、まるで雑巾を絞るように、心から血も涙も枯れさせる。

 

 もし、それでも誰か、掛け替えのない存在がいて、自分自身の心という鏡に映し出されたら、大声で泣き叫ぶかもしれない。或いは、鏡の向こう側にしかないそれを恨み、地面に叩頭し、鏡を殴り続けて出血するかもしれない。

 その鏡は喪失を思い出させる。この残酷な装置は一体、どんな意図で此処にあるのだろう。

 

 私はいつか、今日見た空を思い出すだろうか。

 それとも、その日見る空を、心から楽しんで生きているのだろうか。

 

 今からの歩みを大切にしよう。そう、きっと、それしかない。

 いつか見るであろう、何処かの空が笑っていると信じて。

 

 

 

 

 

 

 

節目から覗く節穴に胡椒を塗れ

 

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 きっと痛いだろうね、目に胡椒を塗るとか。やらないけれど。

 胡椒は、そもそも目に塗るものではないし、中医学では「温裏類」と呼ばれ、体内の冷え取りや食欲増進に良いと言われる。食薬である。

また時代が時代なら、とても貴重な食材でもあります。いわゆる、The large regret age、大航海時代

 

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 後悔先に立たず、何故なら先に立てたのは帆でした。航海、そして後悔。

 

 それは置いといて。

 明日から職場が変わるため、その準備に追われていた、この数日間。

 目に見えないものに追われるのは、精神衛生上、宜しくないとは思うものの、ある未来を追いかけている結果、私自身も追われているという構図に気付き、それほど苦になっていないとも気付く。

 

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 明日は荒天の予報。通勤は自転車だが、明日は先輩に同行するということで、訪問は車で移動するらしい。

 しかしながら、曇天や晴天、わずかな雨天では自転車で移動するしかない。研修が終われば、間違い無く、チャリンコaround the worldとなる訳で、今から緊張の夏。

 

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 早いとこ、原付免許を取ることにしよう。

 昔、右大腿骨頸部を骨折した頃、軽トラ野郎に憧れ教習に通っていたが、坂道発進がなかなか上手くいかず、3回目くらいでようやく分かり始めたところで、骨を折ってしまった。

 

 ここでの、骨を折るというのが意味深だけれど、それは割愛。

 運転免許とは無縁の人生を送ろうと、隅田川を眺めながら心に誓った事は無いけれど、その体でいきたいと思いますので、宜しくお願い申し上げます。

 

 最初からの上手はいない。下手でも下手を繰り返すうちに、上手になっているものだ。

 だから、下手を上手に繰り返そう。

 

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After the 行脚〜it's a danger or wonder

 

 私は、忘れていた。何を忘れたかさえ、忘れていた。

 

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 ああ、行脚の前日、昔の仲間と呑んでいたんだっけ。

 いつもの悪い癖で空きっ腹をアルコールで満たし、遅くまで笑い語らえば、早々に酔いが回り、グラスに浮かぶ雫が、まるで酒ではないように感じていた。

 

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 (中略)

 

 そして火曜日の夜、39.2℃という高熱にうなされて。

 

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 水曜日に耳鼻科で診てもらい、処方された薬で寛解。感謝。

 人様の健康をあずかるならば、己の健康管理を徹底せねばならんですね。

 

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 そんな一週間の終わりにつられて、もう、七月までも終わろうとしている。

 

 旧暦では「文月」。だからといって、何もないけれど。

 敢えて言うなら、「ふづき」と読むことくらい。さっき調べた。

 

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 私、西瓜嫌いです。PASMOは使います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

盂蘭盆行脚(うらぼんあんぎゃ)

 

 今日は歩いた。歩いたと、言葉に変えても物足りないくらい、久々に歩き回った。

 

 神保町から、大手町へ。

 

 目的を無事に果たし、次の一手を考えるのも、立ち止まらず歩きながら。

 歩いていると血の巡りが善くなる。そして思考もまた、活き活きとして心地好い。いい書籍を手に入れた喜び、気怠い夏の暑さに背中を押されれば、歩みを止めるなどできようか。

 

 大手町から、有楽町へ。

 

 この界隈では歩くだけで、特に用事はなかった。すれ違う人波に、今が三連休の合間であると思い知らされながら、汗を拭くタオルが重たくなる。

 

 有楽町から、月島へ。

 

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 佃大橋から眺める隅田川は壮大。千変万化、雲が見せる表情も秀逸。

 大河の流れに逆らうように、数多の高層ビルが建ち並んでいる。空を飛び回ったイカロスは、その翼を灼かれ地に堕ちた。

 川を埋め、空までも埋め尽くした先に幸福は在るのだろうか。疑問を感じながら歩けば、手に持つタオルがどんどん重くなっている。

 

 送り盆。

 祖先の御霊に挨拶した。

 資産家でもない、起業家でもない、大富豪でもない。そんな私にあるものは、今までに出逢った数え切れないほどの縁。有り難いことに、得難いばかりの縁に助けられ、ここにいると言っても過言ではない。

 

 去る者を追わず、来るもの拒まず。

 冷酷かもしれないけれど、私はこの言葉が好きだ。執着を手放した処で感じる縁ほど、心身に沁みるものはないと思っている。

 今の世の中、繋がることを殊更に強調しているが、繋がることが必ず正しくて、別れることは忌み嫌うべきものか。そこには深い懊悩(おうのう)と、際限のない執着が垣間見えてならない。

 

 だからこそ、グループから抜ける人間に対し、時として、非情なまでの暴力を加える。一体、その繋がりに何を求めているのやら。

 去るも縁、来たるも縁。どちらも面白い、それだけでいい。

 

 月島から、自宅へ。

 

 浴槽に浸かると、全身の毛穴から疲労が溢れ出たかと思えるほど、身体が軽くなった。

 しかし、恐らく、体重が減ったわけではないだろう。

 

 

 

 

変化というもの

 

 カタチには、色々あると思う。マル、サンカク、シカク、ヒシガタ、ダエン、バツペンタゴン、など。

 私が昔から好きな言葉に、『水は方円に随う』というものがある。あるという事は、無いわけではない。日本語特有の二重否定、分からなくもなくはない。三重?

 

 何言っているか、分からない。

 

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 さて、本題。

 ヒトが変化を求めるのは、どういう時だろうかと考える。

 それはきっと、その人次第だという結論に至った。

 

 (完)

 

 …というのは嘘で、まだ書き足りない。

 場合によっては「裏切り」、「変節」と言われて叩かれる事もあるが、それが信念や強い想いに駆られた上の、その人自身の内面から湧き起こるものなら、寛容でありたいと思っている。

 

 むしろ、寛容であってもらいたいというのが、私自身の切なる願いだ。

 個人的な願望でも、悪くなくはなくなくないと思っている。もはや、多重否定すぎて、どちらの意味になるのかさえ、考えたくない。

 

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 個人が抱える想いは千差万別。

 それはまるでトマトを見た時に、ある人は「赤い」というのに対して、別の人が「美味しそう」というようなもの。

 それを一方の見方、感じ方に束縛すれば反発が生まれ、その反発が新たな反発、反感を招く。

 

 いわゆる、トマト論争というものである。

 トマトでなくても良いのだが、成り行き上、トマトに固定してしまった訳で、「何でトマトなんだ!」、と、新たな論争を起こしても、私にはその責任は重過ぎる。快く辞退申し上げる。

 

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 当初、何を書こうとしていたのかが分からなくなり、意外と上手く描けたトマトに満足。

 人生ってそんなもの、そうやって毎日、過ごすことさえできれば、きっといつかは大往生。

 

 何となく、書きたかったことと違う気がするけれど、まあいっか。

 

 

 

 

陰陽論feat.自律神経系 其の三

 

 交感神経系の中枢は胸髄・腰髄にあると言われ、副交感神経系の中枢は脳幹・仙髄にあると言われる。

 

 ざっくばらんな位置関係で示すと、胸髄のエリアには肺や心、心包などの兪穴が存在する。東洋医学では、「上焦(じょうしょう)」と呼ばれ、身体上部の臓腑器官と関係が深い。

 

 また、仙髄のエリアは骨盤内器官などがある。兪穴なら「八髎穴」。

 そこを生命の根源を宿す空間として見れば、羊水にぷかぷか浮かぶ胎児の、リラックスしたイメージこそが副交感神経系の中枢とも言え、「下焦(げしょう)」と呼ばれる、身体下部の臓腑器官を指すエリアに近い。

 

 上が「陽」なら、下が「陰」。

 交感神経系や上焦を「陽」、副交感神経系や下焦が「陰」とするなら、「陽虚」というのは交感神経系が弱まった状態、即ち、副交感神経系優位。

 逆に、「陰虚」は副交感神経系が弱まった、交感神経系の過緊張。

 

 仮説を組み立てると、曖昧模糊とした東洋医学と、理路整然とさせる西洋医学との接点が見え、面白く感じる。例え、それが馬鹿げた屁理屈だとしても。

 

 また、交感神経系でも上位にある胸髄が「陽」だとすれば、下位の腰髄は「陰」。

 副交感神経系なら上位の脳幹が「陽」、下位の仙髄が「陰」。

 

 さて、続きはまた次回。

 

 

ある日曜日の肖像

 

 一週間に一回、日曜日は訪れる。とても律儀で、礼儀正しい来客に、こちらも背筋を正さねばならないと、気持ちを引き締める。

 

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 誤解を避けるなら、畳んだ布団にもたれながら、iPhoneで音楽を聴いている訳では、決してない。しかし、そう見えているとすれば、私の作戦は半ば成功している。

 

 今年に入り、私の部屋に断捨離という名の、素性の知れない客が来た。まだ泊まっているから、そろそろ、宿泊費を取るべきか、悩んでいる。

 私は特別親しくした訳ではないが、向こうはどうやら、散らかりっ放し、何でもかんでも積み上げられた、私の部屋が気に入っているらしい。有り難う。

 

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 生きているものは柔らかく、死んでいるものは固い。これは老子の言葉だったか、あるいは荘子だったか。

 思考もまた、硬直していれば死んでいるに等しい。柔軟に、尽きることなく、留まる事を知らずに、流れ出す思考こそ、生きている思考と言える。

 

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 心境の変化は、突然、予期しない瞬間に訪れる。わざわざ予約を入れたり、メールで都合を聞いてくることもない。

 今、休日の夕景を眺めながら、iPhoneに入れてある、お気に入りのレゲエを聴いている。

 この瞬間もまた、予期していた訳ではない。でも、予感はあった。その予感を実現させただけ、という見方も可能。

 

 モノを整理することは、ココロの整理にも繋がるのだろう。

 溢れ返った情報や資源、その他大勢、それらに関わることはココロを疲れさせ、硬直させる。そこから生まれる緊張や不安は、交感神経系も緊張させ、やがて身体にも現われてくる。

 

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 結局、断捨離を宿泊させ続けるのは、私自身、緊張からの解放を願うから。そして、そこから得られるリラックスこそが、宿泊費代わりになっている。

 

 このくらいで、『正しい断捨離との付き合い方講座』は終えるとしよう。講師になった記憶もないけれど、もしかしたら、断捨離が捨てたのかもしれないな。有り難う。